夏が終わり、秋が去って、しんと冷え込む冬が来た。
未だその冬の最中なのだけれど、暦の上ではすでに春。まさに光陰矢の如し。
迎えたばかりに思える新たな年も、いつの間にやら十二分の一と少しが過ぎ去った二月、如月。更衣とも書くそうだけれど、この「更」は衣更えの更なのだろうか、更に衣を重ねるの更なのだろうか。
かく言うわたし羽藤桂は、備えあれば憂いなしの座右の銘に恥じぬセーターを着込んだ制服の上にダッフルコートとマフラーという完全防備のいでたちで、後者の更衣だったりする。それはもう、お母さんゆずりのプロポーションの「プ」の字もないぐらいに着膨れしていて――
ごめんなさい、嘘つきました。
もともと人様に自慢できるほどのものじゃないです、はい。
しかも今はダッフルコートの色形ともあいまって、陽子ちゃんにはペンギンのようだと揶揄されたりするていたらく。
ううっ、これでも脱げば陽子ちゃんよりは凹凸あったりするのに
――そりゃあ、お凛さんには全然敵わないけれど、食生活の差かしらん。
白くまあるく吐かれた息が、寒空の中に散っていく。
「……で?」
隣を歩いていた陽子ちゃんにせっつかれて、わたしははっと我に返る。いけない、いけない、いつもの悪い癖が出た。わたしはふっと思い浮かんだ考えに心を向けると、周りのことが判らなくなる性質なのだ。
そんなわたしに、陽子ちゃんはわざとらしくもまぶたを半分落としたような目で、じったりとした視線を送ってくれたりしちゃっている。
ううっ、さっき考えたこととか顔に出ちゃったりしたんだろうか。
否。それはない。ないはずだ。
さらされた顔をカチカチに強張らせてしまう空っ風は、クールなポーカーフェイス作りに一役も二役も買ってくれているはず。
にしても外、寒いなぁ……おうちのおこたで暖まりたいなぁ……
「で、はとちゃんの頼みって何?」
と、そうだ、そうだ。そうだった。家に帰って炬燵に潜り込むのは延期。やらねばならないことがあるのだ。時間が経つのは早いから、無為に過ごすのは後日でいい。
「えっとね、恒例行事がもうすぐじゃない?」
「鬼は外――って、年の数だけ豆食べたり?」
「節分ならもう一週間も前に終わったよ」
「む、はとちゃんのことだから、こっちのネタで来るかと思ったけど」
ちょうど晩ごはんが手巻き寿司だったから、恵方に向かって食べたりはしたけれど、今年のわたしに「鬼は外」のフレーズはちょっと微妙だったりする。あまり節分万歳といった感じではない。
「……となるとやっぱり答えはひとつか」
「そんなにもったいぶらなくても、バレンタインに決まっていますわ」
「お凛ー! あえてあたしが訊かなかったっていうのに、人が最後に食べようと思って残しといた好物を『いりませんの?』なんて言いながら抜け抜けと掻っ攫うような真似してあんたはー!」
後ろを振り返りながら、がーっと怒鳴る陽子ちゃん。相変わらず凄いなあ。『寿限無』だって一気呵成に言えちゃうかもしれない。
閑話休題、わたしたちの後ろにいたお凛さん――わたしや陽子
ちゃんより背の高い彼女は、三人横並びが迷惑な道だとその辺りが定位置になる――は涼しい顔で、
「ですわよね、羽藤さん」
などと返事を促してくる。歩調を弛めて横並びになり、返事如何によってはどうしてくれようと様子を窺っている陽子ちゃんは完全スルー。
「あ、うん、そう」
答えるわたしもわたしだけれど。
あと一週間もしないうちに、バレンタインデーがやってくる。
好きな人にチョコレートをプレゼントするという、二月中では伝統ある節分を大きく引き離して盛り上がるだろう恒例行事だ。詳しい由来については物知りのお凛さんに訊けば一発だろうけど、ここでは割愛。
うちは女子高だから共学ほど盛り上がったりはしないんだけれど、それでもみんな花のお年頃なわけで、もちろんわたしとて例外ではなく。
「それでやっぱり、手作りチョコかなって思って」
乙女としては、そういうものに惹かれたりもするわけなのです。
「ふむ。ま、バレンタインは基本だからいいんだけどさ……」
「うん?」
陽子ちゃん、今度は歩くペースを上げてわたしの隣に並びつつ。
「はとちゃんが手作り? それもチョコ? お萩とかじゃなくて?」
「いくらわたしが和食派だからって、バレンタインにお萩はない思うよ。ありかもしれないけど、やっぱりないと思うよ」
「それにお萩と比べるなら、チョコレートの手作りの方が楽でしょうしね」
そうそう。小豆を煮潰して餡子を作るのに比べれば――そりゃあチョコレートだって豆から始めたらとんでもない手間になるだろうけど、専門店のパティシエならぬ一般家庭の女の子はそこまでやらない。
「溶かして固めるだけだもんね」
「甘い!」
「えー」
「はとちゃんみたいに冬季限定チョコより甘く盪けた考えしてる子が、鍋にブチ込んだのに直接火ィかけて、底を焦がしたりするわけよ!」
「大丈夫だよ。わたしは暢気な方だから、焦らず急がずとろ火で溶かすよ」
「……はとちゃん」
情けないと嘆きつつ陽子ちゃんは立ち止まり、つられて足を止めたわたしの肩に、数歩遅れで歩いていたお凛さんのてのひらが乗せられる。
「その道に通じたプロの方には、直火を使う方もいるそうですけど……普通は湯煎で溶かしません?」
「……あ」
知らなかったわけではなく、ついついど忘れしてただけ。こうした小事が積み重なって大事に至るわけだけれど、今のは無効にしてほしい。
陽子ちゃん、わざとらしく肩をすくめてため息。渇いた空に白く蒸れた息がもわっと散り、一瞬だけ顔を隠した。
「……なるほど。初心者マークどころか無免許状態のはとちゃんは、あたしに手取り足取り習いたいわけだ」
「ううっ、別に習いたいわけじゃなくてね、ちょこっとお台所を貸して欲しいなー、なんて思ったりしてて……」
「うわっ、あたしの家を引っ掻き回しにやってくるわけね?」
「引っ掻き回すって……」
「ガス爆発とかさせたりとか」
「しないもんっ!」
「では、どうして自宅でしませんの?」
右の人差し指第二関節を唇と顎の間のくぼみに添え、その手の肘を左掌で支えるといったお得意のポーズで訊ねてくるお凛さん。クラスで知られる「もの知り」の二つ名は、この旺盛な知的欲求あってのものかも。
「羽藤さんのお宅が使えない、というわけではありませんわよね?」
「えっと、それはその、家でやるとバレちゃいそうだし……」
「知られると問題が?」
「だって、ほら、やっぱり恥ずかしいし……」
「むむっ、それは乙女の恥じらいモード? ついにはとちゃん本命
チョコか」
「ですわね。去年は既製品でしたし」
「ま、はとちゃんママが台所占拠してたみたいだしそれで仕方なくかもしれないけど。なんかママさんメチャ大量に作ってなかった?」
「わたくしも頂きましたわ。営業用、とのことでしたけど」
「一枚いくらの名刺代わりの割には凝ってたわね」
「お母さんもともと料理上手だし、凝り性なところあったし」
「ふむ……なのに、なんでその娘はこうかね?」
「その娘だからこそ、ですわ。必要は発明の母であり、技術習得もまたしかり」
「ひどいよ、ふたりとも好き勝手言ってるよ……」
そりゃあ料理は未だに苦手な部類だけれど、洗剤でお米を研ぐ人とか下には下がいるわけで、少なくともわたしはそこまで扱き下ろされるレベルじゃないのに。
ぷーっと頬を膨らませ、止めていた足をせかせかと前へ。
未だ短い二人の影から脱した辺りで、お凛さんの声が背中に追いついた。
「申し訳ありません。お詫びにわたくしの家を提供いたしますわ」
「え? いいの?」
その場でくるり振り返ると、お凛さんはいつもの調子で鷹揚に微笑み、陽子ちゃんは名状しがたい複雑な顔でお凛さんを見ていた。何でだろう。
「わたくしも初体験ですけれど、一緒に挑戦してみるのも一興――という気分になりましたから。幸いわたくしも営業先には事欠きませんし」
「お凛さんが営業? どこに?」
お母さんはフリーの翻訳家兼通訳だったから、お仕事くださいねっていう営業はとっても大事。結果は散々だったらしいけど、サクヤさんも手作りチョコを配ったことがあると言っていた。だけどお凛さんはわたしと同じ学生で、うちの学校は原則バイト禁止だし……
小首を傾げるわたしに追いついたお凛さんは、そのまま横をすり抜けて先に立つ。
「習い事もありますし、家にはお父様の部下の若い方たちが何人もいますから」
「あ、そうだったね」
「お凛のとこは義理人情の世界だからねー」
何度かお邪魔したことがあるお凛さんの家は、十人や二十人は楽に収容できそうなほどの大邸宅で、漆喰の白塀に囲まれた純和風の建物は「出会え、出会え」の掛け声で奥から人が湧いて出る時代劇の武家屋敷といった趣。確かに三世帯家族が住むには広すぎる。
「だけどお凛、あんたんちのって台所っていうより厨房でしょ。板さんに言って使わせてもらうのはいいとして、素人の手には余るんじゃないの?」
「まあ、何とかなりますわ」
「ますわってあんたねー。大体、型とかのフツーのお菓子作りの用具って無いんじゃない?」
「そうですわね。洋菓子は店から取り寄せるのがほとんどですから、専用の器具はありませんわね。材料と一緒に購入することにいたしましょう」
「……うわ、これだからお嬢は」
チョコレートの材料程度ならともかく、道具を一から揃えるとなると普通の女子高生のお小遣いでは気前良くぽんと出せるような額に留まらないと思う。
さすがお凛さんお金持ち――といった感想だけれど、わたしの付き合いで散財させるのはどうにもこうにも気が引ける。
「仕方ない。我が家の台所を解放するとしますか」
「あら、奈良さんのお宅には揃っていますの?」
「そうだよ。わたしの家には多分あるから、そこまで考えないでお台所貸してって言ったけど……」
お母さんが作っていたから台所にあるもので大丈夫――なんていうのは、我が家基準のずさんな考えだったと思う。ううっ、わたしの用意周到って穴だらけだよ……
「陽子ちゃんがお菓子作るなんて見たことも聞いたこともないよ?」
「食べたこともありませんわね」
「あれ? うちに来たときクッキーとか出さなかったっけ?」
「うん、陽子ちゃんのお母さんが出してくれたよ。あとマドレーヌとかも」
「とまあ、そーゆーわけ。あたしはそんな趣味ないんだけどね」
「あ……」
なるほど。状況的にはわたしの家とそう変わらず、娘はともかく親は好き、と。
そういえば玄関とか居間とかには、陽子ちゃんの部屋とはちょこっとカラーの違う少女趣味な雰囲気が漂っていたうような気がしないでもない。さてはお母さんの愛読書は『赤毛のアン』とかそういうのだろうか。
「というわけで、うちでいい?」
「うん」
「その代わりと言っちゃーなんだけど、はとちゃんが最初に作ったのはあたしが食べるわよ」
「味見してくれるんだ?」
「へっへっへっ、はとちゃん一生に一度の初めての手作りチョコいただきー」
「……別にそんなへたっぴなのじゃなくて、もっと上手くできたのでもいいよ?」
「ではわたくしは、二番目に上手くできたものを頂くことにしますわ」
「え? まあ、二番目なら……」
「では、十四日にラッピングしたものをお願いします」
「うわっ、お凛ズルッ!? だったらあたしは一番を――」
「それは無理ですわ。一番に先約がなければ、チョコレートを作ろうといった状況にはなりませんでしたから。ねえ、羽藤さん?」
「え? え? え?」
「では、材料を揃えて奈良さんのお宅に向かいましょうか」
「あ、だけど何買ってけばいいんだっけ? 本屋でレシピ立ち読みする?」
「それでは落ち着きませんから、何冊か買いましょう」
「オッケ。時間はあるし、ハックかどこかで作戦会議する?」
「折角ですから、チョコレート菓子の美味しいお店に参りませんこと?」
言い出しっぺのわたしを置いてきぼりに、相談する親友二人は楽しそうに予定を組んで、そんな二人に流されるわたしも、また――
如月某日。空は澄み快晴。風は冷たく湿り気はなし。
そんな特別な日の前の、特別ではない日の午後のこと。
それなりに続く一年の、ほんのわずかな一片のこと。
《 了 》
開け放した障子戸から、外の風が吹き込んできた。
知らず体を縮こまらせ、身を切る寒さに耐え忍ぶわたし。
そんなわたしと同様に、華やかに装うはずの木々も花びらをしっかり折り畳んでいるか、枝中に引き篭もらせているかが主流といった様子の、世間が色付くにはまだ少し――いや、まだかなり早い今日この頃。
目前に広がる日本庭園には、先日施された雪化粧がわずかながら融けずに残っており、春を告げる緑はといえば、未だ弥(あまね)く生(お)いるまでには至っていない。
訳せば『行進』といった意味になる月に入ったのだから、本当ならズンズン春が近づいてきてもいいはずなのだけれど、暖かな空気や開花前線はどこかで足踏みしているらしい。
「ううっ、寒……」
再びの風に、わたしこと羽藤桂もその場で足踏みを開始する。
時期的には春一番かもしれないそれは春風というには冷たく、天高くから降る陽光をはねてきらきらと輝いていた。
「わ、風光る――」
「――は春の季語ですわね」
春の陽射しを含んだ風がいきいきと輝いて見えるさまを謳う言葉であって、粉雪を舞い踊らせた今のは未だ冬のもの。先ほど説明した通り、見渡す景色は冬模様。
「確かに花とくれば春でしょうけど、花は花でも風花ですわ」
滑舌確かな言葉と共に視界の端から入ってくるのは、見るも艶やかな桃の花。
彼女の振り袖に爛漫と咲き誇るそれを前にしては、高価そうな壺に生けられている温室育ちの桃の枝は、八分九分方開いていても慎ましく見え霞んでしまい――
ここ東郷屋敷の跡取り娘で、わたしの仲良しクラスメートでもあるお凛さんの出立ちは、想像以上に煌びやかだった。豪奢な衣装に位負けせず、馬子には無理な着こなしを見せてくれているのは、さすが正真正銘のお嬢様といったところ。
いやはや、眼福です。リクエストしたかいがあったというものだ。
「寒かったですか?」
「寒い、寒い。あんたのお色直しの間中、吹きっさらしの部屋で待たされてたんだから」
わたしに代わって応えたのは、同じく仲良しクラスメートの奈良陽子ちゃん。
さっきまでは「へー」とか「ほー」とか言いながら熱心に雛壇やら桃の花を覗き込んでいたのに、そんなことはおくびにも出さず憎まれ口を叩いたりする。
「あら――それは申し訳ありません。奈良さんの体脂肪の薄さにまでは配慮が至りませんでしたわ」
にっこり笑って顔を見合わせるふたり。
鷹揚に構えるお凛さんと違って陽子ちゃんの方はほっぺたとか硬そうだったりと、一見和やかには見えないやり取りだけれど、それもこれもいつものこと。仲良くけんかする猫と鼠じゃないけれど、これもコミュニケーションのかたちのひとつ。
わたしは足踏みに手を擦り合わせる動作を加えて、ふたりの間に割って入る。
「だけど開けっ放しだとやっぱり寒いよ。何とかならない?」
「そーだそーだ。あたしらはあんたと違って脂肪層薄いんだから、この寒さには耐えられない! 客のもてなしひとつ満足に出来ないで、それで上流階級のお嬢を名乗ろうなんて片腹痛いわ!」
「別に自ら名乗ったことも、今後の予定もございませんけど――」
とお凛さん、人の尻馬に乗った上に勝手に仲間に加えてくれた陽子ちゃんを相手にせず、
「換気も十分のようですし、もうよろしいですわね」
金属のサッシと二重になった障子を閉め、リモコンのスイッチをポチッと押した。どこからかエアコンが動き出す低く唸るような音が聞こえてくる。
火鉢なんかが似合いそうな純和風の東郷屋敷も、実際に住んでいるのは現代に生きる人。表立っては見えずとも文明の利器はしっかり設置されているらしい。
「とりあえず部屋が暖まるまで、甘酒などで内から温めてはいかがです?」
お凛さんが持ってきたお盆には徳利と平盃が三枚、それから朱塗りの器に盛られたひなあられが乗せられていた。
そう、この万全の布陣からしてわかるように本日は三月三日。
女の子のお祭りである桃の節句ということで、十段超えの立派な雛壇を飾っているお凛さんの家に学校帰りに遊びにきたのだ。
「あ、貰う貰う」
「はとちゃん、酔って倒れたりしない?」
「大丈夫だよ、平気だよ」
お母さんの血を引いてるんだから体質的には飲めるはず。
いやまて、お父さんはどうだったんだろう……?
いやいや、甘酒は酒の字がついてはいるものの、お酒を造った後に残った酒粕を割ったもので、アルコール分はゼロだったり、あってもたがが知れたものだ。
「酒税法では酒類に分類されていませんから、もし未成年が酔っ払っても法律には引っかかりませんわ」
「奈良漬けとかべったら漬けとかと一緒だよね」
「奈良漬けって無性に嫌な響きですわね」
「あたしも漬物はあんま好きじゃないけど、その悪し様な言い方は何だー!」
チョコレートボンボンとかを引き合いに出せば良かったかな、なんて考えを頭の隅に浮かべる一方、お酌してもらった甘酒をふうふうと適温に冷ましつつ、舌に広げて嚥下する。
芳醇な香りと口に広がる自然な甘さ、とろりと適度な粘り気と酒粕のつぶつぶがたまらない。高級な日本酒はフルーティーで飲み易いと聞いたことがあるけれど、これはきっとそういうお酒を造った良い酒粕を使っているのだろう。さすがはお凛さんちの甘酒だ。
喉を下って胃の腑に落ち着くと、身体の芯からぽかぽかとした熱が広がってきて、わたしは幸せな吐息を漏らした。
「ふぃ~、やっぱり寒いときにはこれだよねぇ……」
「それは何より。ですけど羽藤さん、昔は甘酒は寒いときではなく暑いときに飲まれていたそうですわ。夏の季語でもありますしね」
そんな薀蓄を遮るように、陽子ちゃんが空の盃を手にしてお凛さんの方に突き出した。
「お凛、あたしにも」
「あら、酒粕には抗肥満効果があるのですけどよろしいかしら?」
「うっさいわね。別に太ろうなんて思ってないし、長期的な展望よりは今の寒さを凌ぐのが先なのよ」
そうか、抗肥満効果があるのか。いいこと聞いた。
「わたしももう一杯もらえるかな?」
「ええ、羽藤さんがお酌をして下さるのでしたらいくらでも。奈良さんは手酌でどうぞ」
「にゃにをー!?」
陽子ちゃんはまだ手付かずになっていたお銚子をお盆から引ったくり、わたしに差し出されていたお凛さんの盃に向かって傾ける。
「あら、どうも」
「さ、はとちゃん。はとちゃんはあたしに注いで」
「いいけどね……」
それから三人、室温が落ち着くまでの間をそんな調子で飲んだり食べたりして過ごす。ちなみにひなあられはお米を煎ったライスパフに色砂糖をまぶした関東式で、さくさくとした軽い食感がまた何とも。
「にしても凄いわね、あんたんちのお雛様。うちにもあるけど、なんか比べるのがおこがましいわ」
部屋も身体も温まり、ここで一旦花より団子モード終了。ようやく今日の主役であるお雛様へと目を向けるわたしたち。
「そういえば陽子ちゃんちのお母さんは、雛祭りとか好きそうだよね」
「まーね。人形とか大好きなもんで。それで一応、七段飾りだったりするんだけどさー」
陽子ちゃん、肩をすくめて首を振り。
「それでもお凛のとこのと比べるとかなりショボいわ」
「陽子ちゃん贅沢だよ。うちなんか去年までは、お内裏さまとお雛様だけ折って飾ってただけだよ」
「折り紙で?」
「ん~、さすがに十二枚で百円とかの安い紙じゃなかったけど」
とはいえ所詮紙は紙。例え手漉きの高級和紙でも、ちゃんとした雛壇を揃えるのに比べれば物凄く安く上がるはず。
「いいなあ、お雛様。羨ましいなあ」
「ですけど羽藤さん。男雛女雛の一対のみが本来の形だったそうですから、それはそれで潔さが好ましいですわ」
「そ、そうかな?」
「ま、紙の人形二対なら、後片付けも楽でいいんじゃない?」
「うーん」
そう言えば、わたしの頭の中には片付けた記憶がさっぱりない。夏にいろいろ片付けたときにも出てこなかったから、処分してたとは思うんだけど……
もしかして、くしゃっと丸めて燃えるごみにポイとか? 確かにそれは潔いけど、好ましさとは対極にあるというか――なんて相変わらず直らない悪癖に引っ張られていたところを、陽子ちゃんの声で引き戻された。
「うちなんて、片付け忘れたママが大騒ぎしたりするからさぁ」
「いつまでも飾っておくと、嫁き遅れるといいますものね」
「や、今のとこそこいらへんは全然気にしてないから。『よーちゃん、どうしよー!?』なんて泣き付かれるのが鬱陶しいだけなんだけど」
「あら、それは残念ですわ。折角、本来は良くないと忌まれていただけで、婚期云々との因果関係は皆無と教えて差し上げようと思いましたのに」
「へー、そうだったんだ?」
「京都の三年坂と似た経緯でそうなったのですわ」
三年坂には片付け忘れたお雛様同様、転ぶとお嫁に行けなくなるというジンクスがあるんだけれど、もともとは三年以内に死んでしまうといったものが変質したものなのだ。
「そういや行ったわね、修学旅行で」
「三泊四日で奈良・京都」
「そうそう、その何とか坂ではとちゃん転びそうになったりとかしてさー」
「奈良では鹿に追い回されたりもしていましたわね」
「はとちゃんってば太秦の活劇村では――」
修学旅行が行われたのは、紅葉に山燃える二学期のこと。
つい最近の出来事にも思えるのに、半年近い月日に隔てられているということに驚かされる。お母さんがいなくなった夏からは、すでに半年以上の時間が経っている。
「何かいろいろ、あっという間だよね……」
遅いまだかと待ちつづけている春も、実のところすぐ側にまで近づいているのだろう。
修学旅行のわたしの醜態を肴に盛り上がっていた二人も、わたしが漏らしたつぶやきに「そーね」「ですわね」と同意を示し、お凛さんにいたっては未だ実感わかない春の訪れついて、具体例を付け加えてみせる。
「あと数日で卒業式ですし、春休みを挟んだ一ヶ月後には、わたくしたちも三年生になりますもの」
そして、わたしと陽子ちゃんはほぼ同時に――
「あ、卒業式……」
「そーだ春休み!」
そんな言葉を口にした。
「奈良さん、それは情緒に欠けるのでは?」
「部活とかやってるわけでもないから特に親しい卒業生いないし、それなら有意義な春休みの過ごし方について今から考えとかなくちゃでしょ? 春休みなんてあっという間に来て、あっという間に終わるんだから」
そして自分の言葉にがっくりと肩を落とし、深く大きくため息を吐く。
「ぼちぼち進路のこととかも考えなきゃいけないのよね……ユーウツだ……」
確かに憂鬱、英語でブルー。
うら若き乙女の春なだけにそれも已む無し。
その心は、青春真っ只中ですから――
…………
うーん、いまいちだなぁ。わたし甘酒で酔っ払っちゃってたりするんだろうか?
「お凛はいいよねー。あんた頭いいから、進路は選り取り見取りじゃない?」
「これでも跡取娘ですので、選り取り見取りというわけには」
しかも新作披露をする間もなく、ふたりの話は進んでいる。わたしだけ置いてけぼりは嫌なので、
「そうなの?」
と首を突っ込んだ。
「ええ、おかげで選択の幅はずいぶんと絞られてしまいますわ」
「にゃるほど、下手に継ぐものがあるってのも大変そーね。あたしはやっぱり気楽な立場がいいわ。そこんとこ考えると、学校の二年が一番よねー」
手酌で満たした杯をぐっとあおって、飲兵衛のおじさんみたいに息を吐き出して。
「ま、持ち上がりだから、四月からもはとちゃんと一緒なのが救いよね」
「うん、同じクラスで良かったよね。少し早いけど、幸先だけはいい新学期のために乾杯でもしようか」
「甘酒で? なんかそれ味気なくない? 折角だから――」
「別のものを用意してもかまいませんが、そのときは奈良さんだけもう一度二年生をすることになるかもしれませんわね」
「うちの学校、そういうこといろいろ細かいもんね……」
「ちょうど二年が一番と聞いたばかりですし、そのように取り計らいましょう」
わずかな衣擦れの音と共に立ち上がり、障子戸の方へと足袋を運ぶお凛さんを、膝立ちになった陽子ちゃんが止める。
「あーっ、別に甘酒でいいわよ! そのかわり春休みにはきっちりお花見やって、そんときゃ夜桜でオールナイトだかんね」
「あ、わたしいい場所知ってそうな人紹介できるよ。ついでに夜間外出の保護者にもなってくれると思うけど、お酒好きだから車は出してもらえないなぁ……」
「どちら様?」
「ほら、前に陽子ちゃんにも電話かけた――」
そんな調子でお喋りしたり、琴の名取りだというお凛さんの腕前を披露してもらったり、様々な柄の着物を取っ換え引っ換えで着せてもらったりしながら、ほんの少し長くなった陽が傾くまでの時間を楽しく過ごした。
「そういえば今日は女の子のお祭りだけど、桃っていえば桃太郎だよね? なんで男の子は五月なんだろう?」
「はとちゃん……」
真冬のような冷たい空気を琴線が嫋々と震わせる、弥生三日は桃の節句。
そんな移ろう季節の中の、節目を迎えた日の午後のこと。
かえりみれば短い一年の、更に短い一片のこと――
――――
ところで物知りお凛さんの言うところ、弥生は弥(いよいよ)であって弥(あまね)しではないのだそう。「それまでよりもより一層」と「端から端までずずいっと」とでは随分と意味が変わってくる。
それから英語の三月はローマ神話に出てくる戦争の神様マルスに由来しており、行進のマーチもフランスから軍隊用語経由で輸入された言葉が定着した英単語とのこと。
うららかな春と殺伐とした戦争とではイメージに落差がありすぎて、あまりしっくり来ないのだけれど、古来、春は戦争の季節でもあったのだ。
どんなに精強な将兵を揃えても、冬将軍率いる寒さや餓えにはまず勝てない。
不可能の文字を辞書から消したナポレオンだって、ロシアの冬の訪れの速さを甘く見積もって負け、それを契機に凋落の一途を辿ったのだ。
だから普通は春の雪解けを待って行軍するのだけれど――
やっぱり春は長閑な方がいい。戦いや争いは春闘とか春場所とか、それぐらいがあれば十分すぎる。
来年の春も、そのまだ先も、世界が平和でありますように。
わたしたちも平穏で暖かな春を喜べますように。
《 了 》
一年のかけらが一片、ひらひら空を舞っている。
形良く伸びた枝から離れた花びらが風に乗り、だけれど圧倒的な影響力を持った地球を袖にすることも儘ならず、独りはぐれてふらふら空を舞っている。
遠くの青に溶けてしまったそれからぐるり視線を巡らすと、頭上に溢れる雲霞のごとき爛漫の花に目を奪われる。
花びら一枚一枚は仄かな色しか持たない白にも拘らず、花霞と群れ咲くに到っては酔いに上気したかのように染まり、眺めるわたしも羽化登仙の心持ちになるそれは、まさに桃源の景色。
咲くのは桜の花ばかりなのに桃に例えるのは如何なものか。しかも月の和名は卯の花月ときたものだから、何やら桜に申し訳ない――
そんな益体もないことを考えているわたし、羽藤桂が下級生の範となるべき最高学年になってから、すでに十数日が過ぎようとしている。例年通りならば花はそろそろ疎らに散り行き、爽やかな新緑に取って代わられているような時期である。
だけれど今年の冬将軍はお尻の重たい安産型だったようで、桜の開花もやや遅れ、舞い散る季節もやや遅れ、今日(こんにち)今宵も花見頃。葉桜過ぎには気をつけなきゃいけない毛虫もまだまだお休み中の模様で、鬼の居ぬ間に何とやらとお花見に繰り出した羽藤さんたち御一行。
とはいえ銘菓「十三石まんじゅう」を誇る街に根差した木々は、入学式を終えるや否や役目は済んだとばかりに散り急き始め、どうせ見るなら満開の花をと欲張った総勢五名は桜前線を追いかけて北上することに。
移ろう自然の寸陰をフィルムに刻むことを活計としているだけに、四季折々の名所はお任せという浅間サクヤ女史の駆る赤いクロカンに乗り込むこと数時間。お天道様が中空に差し掛かるころ、ようやく辿り着いたのがこの場所だった。
そんな手間をかけるなら、地元の盛りに合わせれば良かったじゃないかとおっしゃる方もいるだろうけど、なかなか足並みが揃わなかったのだから仕方がない。
それに人里離れた桜の森は、穴場も穴場の人影皆無。この貸し切り気分の贅沢さを考えれば旅の疲れも平気の平左だ。
名の知れた行楽地の賑やかさも捨てがたいのだけれど、妙齢の女子ばかりという顔触れだけに、酔って羽目を外した人などに絡まれずにすむ安心感に軍配が上がるのは致し方ないことだろう。
……いやね、酔っ払い予備軍ならここにも一名いるけれど。
「かーっ、桜の下で飲む酒はまた格別だねぇ」
なみなみ満ちたコップを一息であおったのは、唯一合法的に飲酒ができる実年齢であるところのサクヤさん、自称「美人独身二十歳」。秋は月見で春は花見でと、花札でも役が付くだけあって、今日のお酒に付けた点数も普段に比べて高得点。
舞い落ちた花びらが、お酒の波間に揺れたりするのは風流だとは思うけど――
三々九度に使われるような平盃ならばいざ知らず、途中のコンビニで買ったプラコップというのはいささか情緒に欠けるのではないだろうか。
まあ、一升瓶から直接飲んだりしてないだけ、マシと言えばマシだけど。
「ほれ、桂。運転手を労って、お酌ぐらいしたらどうなんだい」
「はーい、お酌しまーす」
後ろ手に上体を支えて桜花の天蓋を仰ぎ見ていたわたしは「よっ」と重心を移動させ、膝を進めてサクヤさんの隣へ。
「どうぞ一献」
中身のたっぷりと入った一升瓶は結構な重さがある。右手で口を固定して、もう片方で支えた底を上げて傾けると、コップの縁に張り付いていた花びらは再びささの海に押し流されることとなった。
サクヤさんはこれもまた一気に飲み下すと「さあ注げ、やれ注げ」と空になったコップを突き出してくる。
「えー、ピッチ早すぎなんじゃない?」
「こんなの別にわけないさ。まだまだたっぷりあるんだし」
「そういう問題じゃなくてね……」
腕の中にある開封済みとは別に、未開封の瓶が数本程並び立っているのは一体どういうことだろう。『長屋の花見』御用達のつもり酒ならいざ知らず、これは確かにアルコールの香りも豊かな吟醸酒。あまり野暮なことは言いたくないけれど、唯一の自動車免許持ちがこの有り様でいいのだろうか。
まあ、今日は夜桜まで楽しんで真夜中過ぎの帰宅になる予定だから、酔い覚ましの時間は十分作れる予定――ちゃんと頃合いで切り上げたなら――ではあるけれど――
わたしはサクヤさんのことを知ってるから、一升酒したところで何とかなるかと思えるけれど、予備知識のない親友ふたりは帰りが心配だったりはしないんだろうか。
「おーい、桂――って、聞いてないね。今度は何考えてんだか」
「桜の精に中てられたのかもしれませんわね」
「それはわからんでもないけどね、こっちは次を注いで欲しいんだけど」
「では、僭越ながらわたくしが」
「おっと、悪いねぇ」
「構いませんわ。こんなに良いところへ連れてきて頂いたのですから」
と、わたしの腕から一升瓶を抜き取ったのは、本日の参加が一番危ぶまれた東郷屋敷のお凛さん。いくら大人も同伴とはいえ、日付けを跨ぐ花見というのは門限やらがかっちりしてそうな良家の子女には厳しいんじゃないだろうかと、羽藤桂は考えていた。
にも拘わらず当人てんで無頓着。催促されずとも、コップの渇く暇(いとま)を与えぬ細やかなお酌振りといったらどうだ。
「あんまり飲ませたら帰れなくなっちゃうよ」
「持ち寄った食べ物だけで一日二日は持ちそうですから、醒めるのを待てばよろしいのでは」
「お凛さん、月曜日から学校……」
「ふふ、さぼってしまうのも青春めいていて良いですわ」
はらはらと降る桜をてのひらに受けたお凛さんは、わずかに尖らせた唇でひと吹きして舞わせ、緩やかな微笑を零した。
「散ってしまえば宴もお終いですから、些細なことに気を揉まず――」
「折角だから、ぱーっと楽しまなきゃ!」
お凛さんの言葉を引き取った元気な声は、花見企画の発案者である奈良陽子ちゃんのもの。
「はとちゃーん、うりゃ!」
最後の掛け声に嫌な予感を認めた頃は、すでに時遅し。呼ばれた名前に釣られて向けた顔は、降りかかる白に塞がれて――わたしは反射的に目をつぶった。
軽く細かく柔らかな、無数の何かに叩かれる感触。
痛くはないけど、びっくりした。ほんの少し、息苦しい。
「見たか、忍法花吹雪」
息を継ぐわたしを見下ろして、呵々と高笑いする陽子ちゃん。
白い花の舞い散る様と、空から雪の降る様は良く似ている。ゆえに花に吹雪と付けたり、雪を六花と呼んでみたりと、比喩の類いのやり取りがあるのだけれど、よもやお花見の席で子供の雪合戦のようなことをされるとは思わなかった。
そういえば子供の頃は、不意打ちで雪玉ぶつけられたりしたなぁ……
ぶるぶる顔を左右に振ると、付着していた花びらが、はらりと剥がれて落ちていく。
「ううっ、頭から花びらまみれ……」
「大丈夫、大丈夫。土ついてない綺麗どこだけ見繕ってきたから」
レジャーシートを広げるなり荷物だけ置いて姿を消したと思ったら、桜の森の満開の下、妖しく手招かれていたわけではなく、そんな仕込みをしていたのか。
まったく、早々に飲み始めるサクヤさんもサクヤさんだけれど、陽子ちゃんも陽子ちゃんだ。
「しかも少し食べちゃったし……」
「別に生で食ったところで死にゃしないよ。ま、あたしは食わずに桜酒だけどねぇ」
わたしにぶつかり飛び散った桜玉の累は、隣にいたサクヤさんにまで及んでいたようで、手にしたコップの中にも二、三枚では済まないほどの花びらが入り込んでいた。
「あー」
それでも大人の余裕なのか、お酒のせいで細事はどうでも良くなっているのか。サクヤさんはさして気にした様子もなく、そればかりかわたしの鼻の頭にへばりついていた花びらをひょいと摘み取り、コップの中に追加するようなことまでしてのけた。
「あっはは、花見の席は無礼講だってさ。それではとちゃん、美味しかった?」
「もうっ、陽子ちゃん! お凛さんも何か言ってあげてよ」
「そうですわね、そんなに桜のお味に興味があるのでしたら――」
お凛さん、曲げた右手の人差し指を唇の下に添え、ちょっと小首を傾げて見せて。
「――奈良さんのお昼は、特別に桜尽くしといたしましょうか」
唇の両端を、ほんの少々吊り上げた。
「具も海苔も花びらの桜おにぎりとか?」
「ええ、それと桜の絞り汁なども良いですわね」
「絞り汁かぁ……朝顔の色水なら理科の時間に作ったりしたよね。何の為にそんなの作ったんだっけ?」
「リトマス試験紙の代用ですわ。ですけど浸すだけで絞ったりはしなかったのでは」
「そうだっけ?」
「ええ。それに紫キャベツ溶液の方が主流のようでしたし」
「何だか青汁みたいで、美味しくなさそうだね」
「まあ、飲むのは奈良さんですし」
「ちょーっと待った!」
わたしたちの会話を聞いていた陽子ちゃん、ずかずかと手近な木に歩み寄って対峙する。目前の幹から四方へ張り出す枝へと首ごと視線を持ち上げつつ、半歩下がって満足げに頷くと、右足だけ更に半歩ぶん後ろに退きながら言う。
「そんなことする気なら、こいつの力でおべんとまとめて桜まみれにするわよ!」
枝分かれした先のある一連は、わたしたちが敷いたレジャーシートの上を占拠していた。
複雑な軌跡を描きなから、花びらが一枚落ちてくる。
「……奈良さんの口に入る分まで、桜まみれになりますわよ?」
「死なば諸共って言うじゃない。やっぱ思い出はみんなで分かち合わないと」
まずは脅しとばかりに、軽く木の幹を蹴り付けた。
それなりの太さがある幹は、体重をかけて揺さぶったりしなければ、実際のところびくとも揺るがないのだろうけど――
まだあと数日は枝にしがみ付いていただろう花びらが、全部で十指に余るほどの群れをなし、はらりはらりと落ちてきた。
まるで小さな紋白蝶のようなそれらは、大地に伏せると動かなくなった。
「わ、陽子ちゃんひどいんだ」
「例え犠牲を覚悟してでも、テロリストの要求は突き放すべきなのですが……」
実際のところまだお弁当箱の蓋は開けてないから、花びらが降り積もったところで害はないのだけれど、その場のノリというものがある。
お凛さんは大いに嘆息すると、わたしの両肩に掌を乗せた。
「羽藤さん、これは下手を打って刺激しない方がよろしいようですわ。申し訳ありませんが、泣き寝入りしてくださいませ」
「そんな、お凛さんは味方だと思っていたのに……」
「無理心中の巻き添えなど御免ですわ」
わざとらしくもがっくり落としたわたしの肩を、お凛さんはいつもの鷹揚な笑みを浮かべたまま、とすっと押して突き放した。
力なく上体を泳がせたわたしは、一度手を付きよろめきつつも立ち上がり、脱いでいた靴をつっかけた。
「ううっ、わたしが我慢すればすべてが丸く納まるんだね……」
レジャーシートを離れ、敷き詰められた花びらを踏みしだきつつ、陽子ちゃんまであと数歩の位置まで近づいたところで、膝を抜かしてへたり込む。
「はとちゃん……」
「何て言うと思ったかーっ!」
地面に積もっていた花びらを握ると、往年の水戸泉もかくやの勢いで、身を乗り出してきた陽子ちゃん目掛けて撒いた。目には目を、歯には歯を、奇襲には奇襲を。わたしだって騙す側に回ることだってあるのだ。
「甘い!」
陽子ちゃんは両のてのひらをかざし、顔を保護して一喝する。
「ほほう、お凛との連合軍ならともかく、はとちゃんひとりであたしに挑むと?」
問うと同時に身をかがめ、足元にある弾を引っ掴み、わたしに向かって投げ付けた。わたしも両手でかき出すように、積もったそれらを舞い上げて応戦する。
「江戸の仇を何とやら、今日この場所この花で、目に物見せてくれようぞ!」
と、講談調に気合いを入れた丁度その時のことだった。
「……あ」
知らず兵糧攻めにあっていたわたしのお腹も、今が打って出る好機と悟ったのか、鬨の声を上げたのだ。長時間のドライブに備えて朝を軽めにした影響が、今に至って現れたらしい。
折り悪く風は凪いでいて、花びら同士が打ち合い奏でる玄妙な調べも止んでおり、それは思いのほか大きな音のように聞こえた。
だがしかし、林立する桜に響いて木霊する程でもなく、程なく辺りは静まり返る。
その静寂を破ったのは、それまでわたしたちの騒ぎは蚊帳の外の出来事と、桜花の宴に心遊ばせていたように見えた柚明お姉ちゃんだった。
「ふふ、三人とも本当に仲がいいのね」
口元に手を当てて、ころころと楽しげにそう言った。
「だけど、まずはお昼にしましょうか。江戸の仇を討つ前に、腹が減っては何とやらよ」
「同感ですわ。不肖ながら調停は、わたくし東郷凛が務めさせて頂きます」
「お凛、あんたマジで不肖。はとちゃん見捨てた女が何言ってんの」
「最初に手を出した奈良さんほどではありませんわ」
「あれは親愛の情を込めた、ほんの些細な悪戯じゃないの」
「小学校低学年男子と大差ありませんけど。程度の低い愛情ですわ」
「にゃにおーっ!?」
「さあさあ、奈良さんの矛先はわたくしに向きましたから、この隙に羽藤さんは」
「あ、えーと、うん……」
調停というよりは友軍を逃がすための囮といった体だけれど、この際別に何でもいい。
お凛さんなら平気だろうし、わたしもちゃんとやり返したし、そうなるとお昼ごはんの優先順位がダントツに上がってくるし。
「ほら、桂ちゃん。こっちに来てお弁当広げるの手伝って」
「うん」
昨夜から柚明お姉ちゃんが腕によりをかけてこさえた大作だ。別にわたしたちがお弁当担当というわけではなく各自持参のはずだけれど、それでも二人前どころか三人前と言うにも多すぎるほどの量がある。もちろん、わたしも手伝った。
靴を脱いでレジャーシートに上がりこみ、柚明お姉ちゃんの隣にちょこんと控える。
「桂ちゃん、まだ花びらがついたままよ」
「え? 本当?」
靴を脱ぐ前に、頭やら服やらを叩いて落としたつもりだったが、まだ不足の模様。
再びぱたぱたとあちらこちらに手をやるが、一向に花びらは落ちてこない。
「ほら、ここ」
すっとわたしの頭に繊手を伸ばす柚明お姉ちゃん。
小さい子が「良い子」と撫でられているようで、少し嬉しく快く、それでも同じ年齢の親友たちがいる手前、甘えた素振りを見せるのは気恥ずかしかったりもして。
「……とれた?」
わずかに頭(こうべ)を垂れたまま、上目遣いに訊ね問うたその時――
「柚明、無駄だよ。桜は数で攻めてくるからね。いくら払ってもキリがないって」
「ええ……」
少し呆れたようなサクヤさんの声と、お姉ちゃんの感嘆としたつぶやきに顔を上げると、頭に乗せられていたてのひらが髪を滑って頬を撫で、首筋を掠めて肩に止まった。
少し強い風が吹いていた。さわさわと木々がさざめき花を散らせていた。遠山桜も及ぶべくもない、それは見事な花吹雪。にも拘わらず咲く花はちっとも減ったようには見えず、もしや無限に咲いているのではないかと疑わせる夢幻の光景(ひかり)。いつかの槐を思わせる白花の乱舞。
「……すごい桜ね」
わたしにだってあるように、柚明お姉ちゃんにもサクヤさんにも、それぞれ思う所があるのだろう。
わたしは何も言葉を持たず、ただただ桜を見上げていた。
やがて風が納まり、花の吹雪もちらちらと、切れ切れに舞うまでに落ち着いて――
「お花見なんだから、花びらが付くのは仕方ないわ。払うのは諦めましょうか」
「そうそう、早くお昼にしよ――って、はとちゃんとこのそのお重、中身きっちり詰まってるの?」
いつの間にやら陽子ちゃんもレジャーシートに戻っており、放心したように上を向いていたわたしの手元を覗き込んでいた。
「あ、うん、ちょっと多いけど五人もいるんだから大丈夫だよね」
「……さーて、それはどうかにゃー」
と微妙な表情で返す彼女の手には、籐を編んだバスケット。中身はサンドイッチの類と見たが、こちらもなかなか量(かさ)がある。
「うちのママも『みんなでお花見? 素敵ねよーちゃん!』とか張り切っちゃってさぁ。はとちゃんとこのおべんとはもちろん摘ませてもらうけど、こっちの方やっつけるのも手伝ってよね」
「わたくしのところの板長も趣向を凝らしたそうですから、どうぞお召し上がりくださいな」
「わ、お凛さんとこも立派なお重……」
三家三様、食べ物は必要十分な量を超えて持ち寄っており、更にはお菓子やデザートは別腹とばかりに買い込まれていたりする。先にお凛さんが述べたように、一日二日どころか三日は手持ちで事足りそうな食料事情だった。
「おやおや、揃いも揃って見通しが甘いねぇ。こうなる予想はつかなかったのかい?」
ただひとり、一升瓶を除けば沢庵の切れ端さえ持ってきていない サクヤさん。折角お料理上手なのに披露する気はないらしい。
曰く、花を楽しむにはお酒があれば十分で、大は小を兼ねるがごとく、お米で出来たお酒はお弁当をも兼ねてしまうのだそう。
仕事柄か常備品までアウトドア仕様の車には、レトルト食品なんかも詰んであるから、お弁当が足りなかった場合も、食べるものに困ったりはしないんだろうけど……
「まったくもう、サクヤさんは」
座右の命である用意周到に賭けて、それは一寸どうかと思う。
だけどそんな事を気にしてるのはわたしひとりのようで、柚明お姉ちゃんも陽子ちゃんもお凛さんも、せっせとお弁当を広げている。一品一品を小皿やお重のフタに取り分けて「誰彼のお弁当」という区別なく、好きに食べられるようにしている。
「あ、わたしも手伝う、手伝う」
かくしてレジャーシートには、足の踏み場もないほどにお皿が並ぶことになった。
一面の花と一面のご馳走――酒池肉林とはこの境地のことか。
「それじゃはとちゃん、食べよっか」
「うん。わたしもうぺこぺこだよ」
「それではみなさん――」
「いただき」
「ますわ」
声を揃えて挨拶し、お茶やジュースをコップに注ぎ、銘々料理にお箸を伸ばす。
満開の桜の下でというロケーションこそ特別だけれど、美味しいものを口にしてお喋りに興じるというのは普段の寄り道とあまり変 わらず――
主な話題も学校での事とか、家での事とか、至って普通で平々凡々で――
ただ、わたしの家族とわたしの友達が、こうして一堂に会しているというのはやっぱり少しだけ特別なことで――
それはもう、時が経つのを忘れるほど楽しい時間になったのだ。
ところで座右の銘が銘なだけに、特別な日の前日には決まって準備を念入りにする。小学生時分の遠足では、何度も荷物を詰めなおしたりして寝不足になったものだ。
最近では修学旅行のときに似たようなことをしてしまい、前日の夜更かしが原因で新幹線の中で眠りこけてしまったり――
ああ、そういえば夏に経観塚に行ったときも、電車の中で眠ってしまったんだっけ。
暖かな春の陽射しを、そよ吹く風が揺らしている。
幽かに漂う花の香と、花びらの立てる涼しげな音を運んでくる。
この快い春風が、心地よく膨れたお腹と手を組んで、わたしのまぶたを押し下げた。
春は夜明けの景色が興味深いとは平安京女流エッセイストの言い分だけれど「春眠不覚暁」なんて唐代詩人の言葉に一票入れたいわたしなだけに、忍び足で訪れた睡魔にあっさり陥落してしまったのは致し方ない事だろう。
そしてわたしは本当に、時が経つのを忘れてしまい――
――――
まぶたの向こうで、ちかりと光が瞬いた。
目覚めるとすでに夜桜で、みんなは立つ鳥跡を濁さずと後片付け に余念がない。
「お、起きたのかい?」
すっかり酒気の抜けたサクヤさんが、ぼんやりと頭(かぶり)を振るわたしに気づいて声をかけてくる。
「ううっ、起こしてくれれば良かったのに……」
「桂ちゃん、気持ち良さそうに寝ていたから」
柚明お姉ちゃんは少し申し訳なさそうに、それでもどこか幸せそうに微笑みながら手を差し伸べてくれた。
引かれるままに身体を起こすと、身体の上に降り積もっていた花びらが、滝のように流れ落ちる。
……あれ?
違和感を感じて見回すと、レジャーシートはすでに仕舞い込まれており、つまるところわたしは地べたに直接転がっていたということになる。
それに気付かず眠り続けたわたしもわたしだけど、みんなも少し薄情なんじゃないだろうか。
「本当に起こしてくれてれば良かったのに。わざわざお花見に来たのに途中で寝ちゃったなんて勿体ないよ。わたし、何しに来たんだろうってがっかりだよ……」
「はとちゃんってば何言ってるの。花に埋もれて眠るだなんて、こんな場所に来なくちゃできないって」
「加えてそれが絵になるのは、花も盛りの今ならでは。まさに永久保存ものですわ」
陽子ちゃんとお凛さん、ふたりは顔を見合わせると笑い、揃って意味ありげに視線を流した。その流れの先には――
そういえば先程から不自然に後ろ手だったサクヤさんが立っていた。
小走りに回り込むと予感的中。手中にあるのは大きなレンズの付いた愛用のカメラ。最近のデジカメはすごいらしいけど、拘りがあるのか愛着があるのかサクヤさんはフィルム式一本槍だ。
「え? まさか撮ったの? 寝てるところ撮ったの?」
プロがプロ仕様の機材を使って撮る写真はとても綺麗だから、写されるのは別に嫌じゃないんだけど、まさか乙女の寝顔を無断で撮るなんて。
「サークーヤーさーん?」
寝起きのせいか未だとろんと蕩け気味の眦に力を入れて睨むと、サクヤさんはそっぽを向いて口笛を吹いた。夜の口笛を吹くのは、ちょっと――じゃなくて。
「フィルム没収!」
「それは承服できませんわ。今日は他にもたくさん撮っていただきましたもの」
「そうそう。はとちゃんは、あたしらの青春メモリアルまで一緒に奪っていっちゃうつもりなわけ?」
「ううっ、それは、その……」
「申し訳ありませんが、泣き寝入りしてくださいませ」
「またそれなの!? わたしいつも泣き寝入りなの!?」
「そのようですわ」
いけしゃあしゃあと嫣然と、わたしから二の句を奪うお凛さん。
陽子ちゃんに至っては、そんなフォローさえする気がないのか、
「あ、ところでですね、サクヤさん。焼き増し分なんですけど、はとちゃん経由だと中身抜かれる怖れがあるんで、あたしんち直で送ってもらうってことでいいですか?」
構わないよ。住所は後でメールしてくれればいいから」
なんてサクヤさんと話しており――
春の刹那を体現する、花びらがひらひらと舞う、卯月は半ばの全休日。
そんな散り行く桜を惜しむ、宴に遊んだ日の午後のこと。
カメラのフィルムが一年の、一片の絵を切り取ったこと。
《 了 》
髪を伸ばすと決めてから、もうじき十一年になろうとしている。
伸ばそうと決めた理由はそれほど大したものではなく、お母さんが「桂は長いほうが似合うんじゃないかしら」と言ってくれたから。
お母さんの髪は程々に長くて、当時男の子みたいに短くなっていたわたしは、お母さんとお揃いにしたいと思ったのだ。言われるまでは気づかなかったけれど、そもそもどうしてこんなに短いのか――
わたしは覚えていなかったから、お母さんに訊いたのだ。
「どうしてわたしの髪の毛、お母さんみたいじゃないの?」
わたしはお母さんっ子だったから、いろいろと真似たがるはずなのだ。なのにどうして短いのか、それを不思議で仕方なかったのだ。思考の手がかりが頭の中にあれば、自分で答え探しをしたのだろうけど、その頃のわたしは自分のことをあまり知らなかったから、お母さんに問うしかなかった。
「桂、あなたはね――」
そうして手に入れたのは、火事が全てを奪っていったという答え。
十と一年ほど前に、煙に巻かれたわたしはお父さんと記憶を失ってしまい、その災いで焼けてしまった髪は短くせざるを得なかったのだと、そう聞いた。
だけれど、それは偽りの出来事。
失われたと思っていた記憶は、わたしが糊塗した虚ろの向こうに隠されていただけで、長い月日にすっかり古びて乾いた嘘は、去年の夏にばらりと崩れ――
わたしは記憶を取り戻した。
優しく髪を梳いてくれる、白い手の持ち主を取り戻した。
![[在线/搬运/小说/生肉][麓川智之][Hal]アカイイト特別編ひととせのひとひら‧長髪姫[红线][已完结][2006]](https://yuri.website/wp-content/uploads/2025/09/nov_bgi02.jpg)
その白い手の持ち主は、お母さんがよくそうしてくれていたように、お風呂上りの湿った髪にブラシをかけてくれている。
毛先から数センチ程度のところから初めて丹念に梳り、徐々にブラシの滑る距離を増やしていき、時間をかけて根元にまで辿りつく。
十と一年ほどの間、伸ばし続けたわたしの髪は長い。
十二歳から二十歳まで高い塔に閉じ込められて、ついにはそのてっぺんから地上に到るまで伸ばしたラプンツェルほどではないけれど、結んでいるのをほどいて下ろせば膝に届く長さになる。
これだけ伸ばしている割には痛みも少なく柔らかく、わたしが人に自慢できるそれほど多くない美点のうちのひとつになっていたりするのは、十と一年ほどの間、お母さんが手間隙かけて慈しんでくれたから。
わたしだけでは手入れが行き届かないので――理由はそれだけではないけれど――お母さんが亡くなりひとりになってしまってからは、分相応の長さに切ってしまおうかと幾度も幾度も思ったぐらいだ。
だけれど今は、大好きな人が髪を梳ってくれるという幸せな時間がある。わたしは日溜りの猫のように目を細めて、頭皮を引かれる僅かな刺激に身をひたす。
「桂ちゃんの髪、ずいぶん長く伸びたのね。小さいころは短かったから簡単だったのだけれど……これだけ長いと大変よね」
「昔みたいに短い方がいい?」
かけられた言葉に不安を覚えて後ろを向こうとすると、ぽんと柔らかく頭を抑えられた。
「ほら、絡まると大変だからじっとしていて」
「うん……」
「短いときも可愛かったけど、長い方が似合うと思うわ。ずっと昔のことだけれど、桂ちゃんが髪の毛を切ってしまったとき、わたしとても残念だったのよ」
大人しくなったわたしに満足したのか、柚明お姉ちゃんは頭に乗せた手を二度ほど軽く弾ませてから髪の手入れに戻った。
「ねえ、桂ちゃん覚えてる? 桂ちゃんが髪を短くしたときのこと」
「えっと……覚えてるっていうか、思い出したっていうか……」
「ふふ、桂ちゃん、ちゃんと覚えていたのね」
「そりゃあ、まあ……」
わたしの髪が短かったのは、自分で切ってしまったから。だいたい髪の短いわたしを柚明お姉ちゃんが知っているということは、お母さんが火事だと偽ったあの事件よりも前から短かったということだ。何しろノゾミちゃんたちを封じていた鏡に写っていた双子――わたしと白花ちゃんは髪型に到るまで本当にそっくりだったのだから。 そこでひとつ疑問に思った。
事件のせいでも何でもないなら、どうしてお母さんはそんな嘘を?
嘘に到った経緯のどこかに、その必要があるのだろうけど―― ―――― 切るもんと、双子の兄に向かってわたしは言った。小さなわたしは顔を真っ赤にしながらそう言った。
手にははさみ。ぷくぷくと幼い手にはそぐわない、柚明お姉ちゃんの裁縫道具の古びた形の無骨なはさみ。お祖母ちゃんの形見でもある裁断ばさみ。
わたしはぷりぷりと怒っていたけれど、別にそれを使って切った張ったの大立ち回りを演じようとしていたわけではない。人に刃物を向けてはいけませんと教えられていたし、そういった物の扱いに関してお母さんは厳しかったのだ。はさみはわたしに向いている。更に詳しく対象を絞るなら、根元で握ったわたしの髪を二本の刃で挟み込もうといているところだった。
事の発端はたわいのない白花ちゃんの一言にあった。
「ぼく、大きくなったらゆーねぇをお嫁さんにするんだ」
幼稚園に通い出した男の子が、優しく綺麗な保母さんに向かって言う決り文句のような、本当にたわいのない一言。わたしと白花ちゃんにとって十歳違いの従姉の存在は、保母さん以上に憧れの、本当に大好きなお姉さんであったのだから、白花ちゃんがそういうことを口にしても何らおかしなことはない。
そして、それを聞いて変な気持ちになったわたしも言ったのだ。
「わたしもーっ。わたしも柚明おねーちゃんお嫁さんにするーっ」
白花ちゃんは気が弱いというか、妹のわがままに振り回される性質というか、わたしが後出しの横取りを宣言すると大体は大人しく譲ってくれたりしたものだった。けれどこのときばかりは少し意地悪そうに、首を横に振ったのだ。
「だめだめ。桂ちゃんは髪の毛ながいもん。女の子だからお嫁さんはもらえないんだよ」
髪が長いイコール女の子、という考えは短絡的でいかにも子供のものだったけれど、わたしも同じだけ子供で同じだけ短絡だったのだ。
「ううっ……だったら切るもん……」
白花ちゃんに逆らわれたのがショックだったのか、その両方が入り混じった結果か、はては別の要因か――
今となってはどうにも判別が付きがたいのだけれど、わたしは顔をくしゃっと赤く歪めて子供部屋から出て行ったのだ。
「白花ちゃんみたいに短くするもんっ」
そしてその勢いのままにお姉ちゃんの部屋へ行き、裁縫道具をまとめた箱から大きなはさみを取り出して――
髪を切るための物ではなかったけれど、手入れの行き届いていた裁断ばさみは、背筋にぞくっとくる濁音混じりの音を立てて、わたしの髪を切り落とした。
「あ……」
子供特有の細く柔らかな髪が畳に落ちる音と、漏れた吐息に混じった声はほぼ同時。それはわたしのものだったのか、白花ちゃんのものだったのか。
剥き出しになった首を掠める空気の流れになんともいえない居心地の悪さを覚えて、まとわる髪を探した手が空を切る。何もつかめないてのひらに、わたしはとても不安になった。在るべきものとして
![[在线/搬运/小说/生肉][麓川智之][Hal]アカイイト特別編ひととせのひとひら‧長髪姫[红线][已完结][2006]](https://yuri.website/wp-content/uploads/2025/09/nov_bgi01.jpg)
在ったはずのものが無い。良く似た気持ちを感じたのは、笑子お祖母ちゃんが亡くなったときのことで――
「桂ちゃん、本当に切っちゃった」
ぼつりとつぶやいた白花ちゃんの声が、ぐるぐるといろいろなことを考えていたわたしを現に呼び戻した。
ほっぺたと口の周りがぎゅっと強張り、鼻の根元がきゅんとなったかと思うと、ぽろぽろ涙が目から零れた。喪失感に打ちのめされ、呼吸が乱れてしゃくりあげる。
「ううっ……うっ……うわあっ」
自分で自分の髪に触ろうとして気が付いた。とても大切なものを失ってしまったのだと、取り返しがつかない事態になって初めて気が付いたのだ。髪を伸ばしていた理由は、わたしが女の子で白花ちゃんが男の子だということもあったけれど――
「桂ちゃん、桂ちゃん、ごめんなさい。ごめんな……あっ」
涙目になって謝りつづけていた白花ちゃんが、とすとすと靴下が畳を踏んで近づく音に気が付いて息を呑んだ。
「こらっ、ただいまって言ったのに誰も返事をしてくれないと思ったら、またお姉ちゃんのお部屋でいたずらしてたのね」
学校から帰ってきた制服姿の柚明お姉ちゃんが、重そうに膨らんだかばんを手に部屋の中に入ってくる。
「ちゃんと片付けてるつもりだけど、お裁縫の道具とか危ないものもあるから勝手に入っちゃ――」
駄目だと続いただろう言葉が、口の半ばで止まった。
前にも勝手に部屋に入った挙句、大事な本を破いてしまって、大 泣きしながらお姉ちゃんの帰りを待っていたということがあった。だから今回もその程度のことなのだろうと、慌てず部屋まで来たのだろうけど。
「けっ、桂ちゃん!? 桂ちゃんよね!? その髪の毛どうしたの!? はさみなんか持ってどうしたのっ!?」
柚明お姉ちゃんは血相を変えてわたしの手から裁断ばさみを取り上げると、手にしていた学生かばんの中にしっかりと仕舞い込んでから、わたしをぎゅっと抱きしめた。
「桂ちゃん一体どうしたの? 白花ちゃんは何か知ってる?」
「あのね、ぼくが桂ちゃんにね……」
白花ちゃんがたどたどしく、だけれどしっかりと経緯を説明した。普段はわたしに振り回されてばかりなのに、やっぱりしっかりお兄ちゃんだったのだ。
「もう、本当になんてことするの……」
事情を飲み込んだ柚明お姉ちゃんは、呆れた声を作って言った。当時はしゅんと萎れたけれど、その声には嬉しげな響きが混じっていたりもしていて。
「真弓さんにお願いして、ちゃんと綺麗に切ってもらわないとね。こんな風にざんばらじゃあ、せっかくの可愛さが台無しだもの」
みっともなく切れた髪の間を、白くたおやかな手串がするする滑っていく。
ああ、わたしはこの感覚が大好きだから―― ――――
「――いちゃん……」
小さい頃に髪を伸ばした一番の理由は、お母さんや柚明お姉ちゃんに髪の毛をいじってもらうのが大好きだったから。長ければそうしてもらえる時間が増えるからだったのだ。
「桂ちゃん……寝ちゃった?」
「えっ!?」
柚明お姉ちゃんの声に、はっと首をめぐらせて――
流れの方向を勢い良く変えられた髪はブラシに絡まり、わたしは痛い思いをした。
「ううっ、痛い……」
「桂ちゃん……だからじっとしていてって言ったのに……」
「ごめんなさい……」
小さい頃のおてんばな気性はずいぶん鳴りを潜めたけれど、衝動的にしでかしてしまうところなんかは相変わらずだった。ううっ、こんなのじゃ駄目だよ。用意周到、転ばぬ先の杖で生きていかないと……
ちょっとだけ反省。思考が堂々巡りになる前に頑張って気持ちを切り替える。よし。
「あのね、お姉ちゃん。わたしわかっちゃった」
「わかったって、何が?」
「お母さんがね、何でわたしに『短くなったのは火事のせい』なんて嘘をついたのか」
![[在线/搬运/小说/生肉][麓川智之][Hal]アカイイト特別編ひととせのひとひら‧長髪姫[红线][已完结][2006]](https://yuri.website/wp-content/uploads/2025/09/nov_bgi00.jpg)
そう自慢気に言ってのけると、ブラシを動かすお姉ちゃんの手が一瞬だけ小休止して、それから何事もなかったかのように動き始めた。
「そうね、どうしてかしらね」
ぜんぜん疑問を持っているようには聞こえなかった。
「ううっ、その余裕な反応……お姉ちゃんにはわかってたんだね?」
「だって、桂ちゃんを考えてのことですもの」
そうなのだ。
わたしが髪を切った逸話の中には、白花ちゃんと柚明お姉ちゃん――あの事件の後は名前すら呼ばれることなく、はじめからいなかったことにされていたふたりともが、動機にも現場にも揃っていたのだ。
柚明お姉ちゃんがユメイさんとして現われた最初の夜に、すべてを忘れて夢にしてと言ったのと同じ理由で、お母さんは嘘をついたのだ。わたしの心が壊れないように、思い出したりしないように。さすがわたしのお母さん。うっかりだけれど用意周到。
「ところでなんだけどね、柚明お姉ちゃん」
「なあに、桂ちゃん」
「わたしが髪の毛切ったとき残念だったって言ってたけど、その割には何だか嬉しそうだったよね?」
「あら、だって――」
はい。おしまいとわたしの頭を撫でた柚明お姉ちゃん、にっこりと。
「桂ちゃん、わたしをお嫁さんにしてくれるんでしょう?」
《 了 》

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![[在线/搬运/小说/生肉][麓川智之][Hal]アカイイト特別編ひととせのひとひら‧長髪姫[红线][已完结][2006]](https://yuri.website/wp-content/uploads/2025/09/novel_v011.gif)
